降りしきる雨の中、女が独りで傘も差さずにフラフラと歩いていたら……必ずと言っていいほど、男たちが声をかけてくる。
でも私は………
ごめんね。そんな気持ちになれないから、無視させてもらうわね。
今は、この雨に打たれていたいの。
雨の雫と一緒に、私の心も流れていけばいいのに…と思う。
そしたら、この悲しさも寂しさも苦しみも……何も感じなくなるのかな。
それよりも……この体ごと、溶けてしまえばいいのかもしれないわね……
* * * ☆ * * * ☆ * * * ☆ * * *
3週間ぶりに彼と会えて、とても嬉しかった。
でも食事のあと、ホテルに行って……彼の背中に走る爪痕を見た途端、それまで舞い上がっていた気持ちが急激に冷えていった。
まるで心の中に、大きな氷の塊を放り込まれたみたいな……そんな感じだった。
「あなたのことなんて、もう信じられない!」
「何を急に言い出すんだ?」
「あなたの方から婚約の話が出たから信じてたのに、まだ浮気は続いていたのね。……その背中の爪痕は、誰が付けたの!?」
「いや、これは――」
「もういいわ。さようならッ」
「おい!」
彼が呼ぶ声にも振り向かずに靴を履き替えて、部屋から飛び出した。
彼が「先にシャワーを浴びる」って言ったから、私はまだ服を着たままだった。
もし私が先にシャワーを浴びていたら
もし彼に抱かれてしまった後だったら
たぶん……このままずるずると続いていた……
結果的には、別れて良かったと思う。
だけど気持ちの方では、今でもまだ彼が好きで……包まれたいと思っていて……
―― 辛いわ……
* * * ☆ * * * ☆ * * * ☆ * * *
「おい、何してるんだ!風邪をひくだろ!?」
男の人に、いきなり腕を掴まれた。
―― え?
その人の姿が浮き上がって見えたから、驚いた。
今までモノクロだった世界に、色が飛び込んできたみたいな……そんな感じだった。
その人は自分の傘を私に持たせると、スポーツバッグを地面に置いた。そして中から大判のタオルを取り出して、私を頭からすっぽりと包んだ。
「こんなに濡れて……ダメじゃないか、ん? 家はどこだ?」
―― お節介な人ね
ガシガシと荒っぽく拭くような動きをしているのに、力任せじゃなくて……その大きな手はとても優しかった。
だから……かな。
「帰りたくないの。……あなたの好きなところへ、連れて行って」
「何!?」
初めて会った人に言う言葉じゃないんだろうけど、「この手に包まれたい、この人なら」って思ったら……そう返事していた。
「バカなこと言うんじゃない」
「バカなこと、なのかな……。あなたがダメなら、他の人にお願いするわ」
―― 嘘よ。本当は、あなたじゃなきゃダメなの。お願いだから……
「……仕方ないか。俺は駅前のホテルに泊まるんだけど……一緒に行くか?」
本当に困った顔をしていたけど、そう言ってくれた。
―― ありがとう……
* * * ☆ * * * ☆ * * * ☆ * * *
「こんな予定じゃなかったんだけどなぁ」
体が大きくて寝相も悪いから、いつもダブルの部屋を頼むんだ……と言って、その人はエレベーターの中で笑った。
「先に体を温めたほうがいい」
部屋に入るなり、その人は私に入浴を勧めてくれた。「濡れた服はクリーニングに出しておくから、ゆっくり浸かっておいで」という言葉が嬉しかった。
初めて会った人とホテルだなんて、なんて大胆なことをしたんだろう。
あの人だから、そう思えたのかもしれない。
だけど……名前も何も知らない人なのに、そこまで信用していいの?
もしかしたら豹変して、酷いことするかもしれないわよ? どうする?
………いいわ。それでもいい。
あ! 私ったら……
さっき彼と別れたばかりで沈んでいたのに、すっかり忘れてたわ。
なんて薄情な女なのかしら。
でも……その方が良いかも。あんな人、早く忘れた方が……
私はバスタブに浸かりながら、いろんなことを考えていた。
* * * ☆ * * * ☆ * * * ☆ * * *
私がバスローブに着替えてソファに座るのと入れ替わりに、その人はシャワーを浴びに行き……戻ってから、2人してビールを飲んだ。
「……で、話してくれるか? どうしてあんなことしてたんだ?」
「彼と別れたの。原因は浮気よ。彼の背中に爪痕があったの。……浮気性な人だとは思っていたけど、彼の方から婚約の話が出たのに……信じてたのに……」
「そうだったのか。……でも浮気性だと分かっていて、付き合ったのか?」
「お見合いだったのよ。両親に薦められて……ね。だから多少のことには目を瞑ろうと思っていたわ。でも……」
「ん?」
「政略結婚みたいなものだけど、それでも浮気は嫌なの。私だけを愛して欲しい、っていうのは我侭なのかしら……」
「我侭なんかじゃないよ」
「あなたも、そう思う?」
「ああ」
「良かった……。きちんと両親に話して、婚約を破棄してもらうわ」
ホッとしたら、酔いがまわってきたみたい。
「さっき、他の人に着いて行くとか言ってたけど……あれは本気で言ったのか?」
その人は、私の顔を覗き込むようにして言った。
「え?」
「正直に答えてほしい。……誰でもよかったのか?」
「あれは嘘よ。私……あなたに断られたら、あのまま家まで歩いて帰るつもりだったの。本当は、あなたじゃなきゃ嫌って……そう思ってたわ。あなたの手が、とても優しかったから……あなたに包まれたいと思って……」
「俺は……君がいろんな奴から声をかけられているのを見ていたんだ。ことごとく無視している様子をね。でも君が急に、あの雨の中に消えてしまいそうな気がして……慌てて腕を掴んだんだ」
「そうなの!?」
驚いた。
「この体ごと、雨に溶けてしまえばいいのかもしれない……って思ってたわ。それがあなたに伝わったのかしらね」
「もうそんなこと、思わないでくれよ。こんなに1人の女性が気になったのは、初めてなんだ。だから俺のためにも……頼む。彼と別れたばかりの君に、こんなこと言っちゃいけないんだろうけど、でも……君に惚れてしまった俺のために、な?」
「惚れた、って……」
「一目惚れらしい」
―― 本当なの?
「でも……私を此処へ連れてくるの、困ってたんじゃなかった?」
「惚れた相手だから、な。自分を抑えられなかったらどうしようとか、思うだろ?」
「抑えられなくてもいいわよ? 私も同じ気持ちだもの。でも……約束してほしいの」
「約束?」
「お互い名乗らない、素性も明かさない、今夜だけの関係。でも次に出会えたときには恋人になる。……どうかしら?」
「どうしてそんなことを!?」
「私の拘り、かな。……さっき彼と別れたばかりなのに、もうあなたのことが好きになってるわ。こんなに変わり身の早い女だったかしら、って……自分でも驚いているの。だからこのまま恋人になっちゃうと、この先……続かないような気がして……」
泣きそうになってきた。
「不安なの! だからまた出会えたら『あなたとの出会いは運命なんだ』って思えるわ。『あなたと私は結ばれるべき存在なんだ』って確信できるから……」
そこまで言った途端、涙が零れた。
「……分かったよ。そこまで言うなら……」
その人は優しく抱きしめて、包んでくれた。
私を抱き上げてベッドに下ろした人が、ふと思いついたように動きを止める。
「名前が呼べないのは、ちょっと困るから……俺は『キョウ』と呼んでくれ。君は?」
「それなら私は『リサ』で。でも……バージンじゃなくてごめんなさいね?」
「お互い様だろ?」
キョウの唇が、私の唇に降りてくる。
「……そうよね。ナニ言ってるんだろう、私」
「緊張してるのかな?」
「そうみたい。心臓がドキドキして……煩いくらいだわ」
「どれ? 見せてごらん」
キョウは、そう言って……私が着ていたバスローブの紐を解いた。
* * * ☆ * * * ☆ * * * ☆ * * *
あれから半月ほどが過ぎたけれど、まだキョウには会えていない。
「本当に、あれで良かったのかしら……」
「何? 理紗、どうしたの?」
「ううん、なんでもないわ」
―― 最近は独り言も多くなってしまったみたいね……
4月になって進級した。親友とまた同じクラスになれたのは嬉しいんだけれど、あの夜のことが頭から離れない。
本当に、あれで良かったのかしら……と考えてしまう。
―― 名乗っても良かったんじゃないの? なんてバカな約束をしちゃったの?
会いたくて会いたくて、たまらない。でも手がかりが何も無い状態で……『後悔』の文字が何度も頭を過ぎる。
―― 奇跡でも起こらない限り、もう会えないんだわ……
キョウのことばかり考えていたから俯き加減で、何をしていても上の空だった。
教室に入ってから漸く顔を上げることができて、周囲の声も聞こえてきた。
「ねえ、新しく来た担任、カッコ良くない?」
「そうそう。体も大きくて優しそうでさ? 守ってもらいたい〜って感じ?」
「『私を守って〜』って?」
「きゃー」
―― ふ〜ん、そうなの……
私には関係ない、と思っていた。でも、
「3年7組って、ココか〜」
そう言いながら扉を開けた彼と私の目が、バッチリ合って……
「「!!!!!」」
奇跡は起こった。
― End.―