短大を卒業して、社会人2年目になった私・小山内由紀(おさない ゆき)は重大な発注ミスをしでかした。
私だけでなく「君にも監督責任がある!」……と係長も一緒に課長から叱責され、得意先へも係長と共にお詫びに行き
「若いねぇ。腰掛けかね? それとも結婚相手を探すために就職したのかね?」
ネチネチと嫌味を言われても、ひたすら頭を下げていた。
絶対に泣いちゃいけない、って我慢していたから「申し訳ありません」しか言えなかった。
係長の―― 謝り方(説明?)―― が上手だったのか
「では、そちらの誠意とやらを見せてもらおうじゃないか。こんなことは2度と無いように頼むよ」
そう言ってもらうことができて……肩の力が抜けてホッとした。
係長が居てくれて、本当に良かった。
私独りだったら、お得意先を無くしていたかもしれない。冗談じゃなく。
* * * ☆ * * * ☆ * * * ☆ * * *
「係長、すみませんでした。そして……本当に、ありがとうございました」
移動中の社用車の中。
運転している係長に頭を下げる。
「これで終わりと思うな。これからが大変なんだぞ。分かってるか?」
「はい。もう後が無いってことですよね」
「そうだ。今度やったら、あそことの付き合いも終わる。そうならないように、今まで以上に気を引き締めろ」
「はい!」
「“信用”というものは……時間をかけて築いても、一瞬で失う。……厄介なモノなんだよ……」
「え?」
「いや何でもない。社に戻って課長に報告するぞ」
「はい」
報告やら何やらで慌しく過ぎていき、ふと気付けば終業時間は既に過ぎていた。
週末だし、なんだか飲みたい気分だしで、私は独りで飲みに行き……飲んでいるうちに無性に会いたくなってきて、彼のマンションへ行くことにした。
なのに……そこに住んでいるのが、彼じゃなかったなんて……
* * * ☆ * * * ☆ * * * ☆ * * *
朝、目が覚めて隣を見てギョッとした。
知らない人が眠っていた。
その寝顔を見つめた後、天井を睨みながら…昨夜からの行動を思い浮かべていく。
カウンターでカクテルを飲んでいたら、彼に会いたくて堪らなくなってきて……
ベッドが膨らんでいたから、もう寝てるんだと思った。
だから私は服を脱いで、彼の隣に潜り込んだのよね……
ちゃんと合鍵を使って入ったし、引越したなんて聞いてない。
これは彼のベッドだし、あの壁掛けも、あのラグも、間違いなく彼の……
「小山内さん!?」
「はいッ」
呼ばれて思わず返事をして、声の主を見たら……隣の人が目を見開いていた。
―― 知ってる人!?
誰だっけ……? と眉間に皺を寄せながら考えていると、その人の右手人差し指が近づいてきて私の額を押した。
「眉間に皺を寄せない! 考え込むと行動が止まってしまう癖も直しなさいと、いつも言ってるだろ?」
その台詞は……
「か、係長なんですか!?」
「見て分からないのか?」
―― 全っ然分からないです!
「め、眼鏡は……?」
「普通、寝るときは外すと思うけどな」
「……そうですけど……」
―― 外したら別人じゃないですかー!
驚いた。眼鏡の有無で、こんなに雰囲気が変わるなんて思いもしなかった。
それに、こんなに不機嫌な係長なんて見たことがなくて…少し戸惑ってしまう。
―― 一体どうしたのかしら……どうして係長は…
「…あ、そうよ! どうして係長が此処に居るんですか?」
「此処は僕の弟の部屋だ。居ちゃ悪いのか? それよりも、なぜ君が此処に居るんだ? 君は男性の寝室に忍び込むのが好きなのか?」
「違いますッ!! 私は彼の部屋に……って、弟!? 雄二(ゆうじ)さんは係長の弟なんですか!?」
「君の言ってる『雄二』が『如月雄二(きさらぎ ゆうじ)』なら、僕の弟だ」
「そうです、如月雄二さんです。彼は今、何処に居るんですか?」
「新婚旅行で、沖縄だ」
「新婚…旅行……」
私の意識は、そこでフェードアウトした……
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「勘弁してくれよ……」
下着姿のまま気を失っている部下を前に、僕は溜息をついた。
親が離婚して姓が異なったから、といっても
あいつの下半身が、どんなに無節操であっても
今まで、何度となく迷惑をかけられていても
やっぱり雄二は、僕の弟で……
「オレこいつと結婚する。妊娠6ヶ月なんだ。さっき籍も入れてきたし……あとは新婚旅行だけだから」
一週間前。彼女(奥さん?)を連れて現れた弟は、いきなりそう言った。
「ちょっと待て。確認するが……もうそれは決定事項なんだな? 僕が反対しても、もう遅いんだな?」
「ああ。ついでと言っちゃナンだが、親父からは勘当された。今、こいつ…『みどり』ってゆうんだけどさ。みどりの親ンとこで世話になってる」
「じゃあ、お前のマンションは?」
「他の女たちが来て、煩くってさぁ……。最近は行ってない。避難してるんだ」
「お前、……自分でやったことのケジメもつけてないのか!?」
頭が痛くなってきた。呆れて、ものも言えない。
そして……僕たちは、久しぶりに兄弟喧嘩をした。
結局、僕は弟のマンションに住んで…弟の彼女だった人たちと対峙して、会社で培った処世術を存分に発揮して、丁重に謝っている。(本当は嫌だけど)
でもまさか小山内さんが、その中の1人とは思いもしなかった。
真面目で良い子だと思っていたのに……合鍵を持つような仲だったとはね……
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ふと目が覚めて、辺りを見回すと……誰も居なかった。
急いで服を着て、リビングへの扉を開けると……係長がソファに座ってコーヒーを飲んでいた。
「君も飲むか?」
「はい、いただきます」
係長に促されて、反対側のソファに座って……コーヒーをいただいた。
そしたら気持ちも落ち着いてきて、ショックもだんだんと薄れていった。
「雄二さん、結婚……したんですね。じゃあ私、もうココに来れない……」
「君はそんな簡単に諦められるのか? 普通は、何かしら抵抗するんじゃないのか?」
「だって……奥さんに悪いですもん。また、誰か……一緒に寝てくれる人を探します」
「何てことを言うんだ!」
―― どうしてそんなに怒るの!?
「…そんな大声で怒鳴らなくてもいいじゃないですか! …私には大事なことなんです。
すぐにでも雄二さん以上の人を見つけないと、駄目なんです…」
「君って人は……もういい! 早く此処から出て行ってくれ」
―― ……
「言われなくても出て行きます。この鍵、お返ししますから雄二さんに渡してください。では失礼します」
勢い良く立ち上がり、バッグを掴むと玄関へ急いだ。
扉を閉めてエレベーターに乗り込んだとき、それまで我慢していた涙が零れた。
* * * ☆ * * * ☆ * * * ☆ * * *
あの日から3日目に、弟が独りで土産を持ってきた。
小山内さんとは会社で月曜・火曜と顔を合わせていたが、必要以上のことは話していない。むしろ避けているくらいで……
「雄二。小山内さんが鍵を返しに来たぞ」
リビングでコーヒーを飲みながら、話を切り出す。
「小山内さん、って……由紀ちゃんが!? いつ?」
「……3日前だ。お前、結婚相手が居るのに……合鍵まで預けて……」
「由紀ちゃんは特別なんだよ。兄貴の考えているような子じゃない」
―― 何?
「ちょっと待て。順番に、きちんと話してくれないか?」
「……わかったよ。初めて会ったのは一年前だけど……親父が入院したのを兄貴に知らせに行ったことがあっただろ?」
―― そう言えば、雄二が僕の会社に来たことがあったな……
「あん時、ランチに行く途中の由紀ちゃんとぶつかったんだ。オレの方が悪いのに……一生懸命に謝ってる姿が、なんか可愛くて……保護欲かきたてられちゃってさ。で、それからも会って話すようになって……相談を持ちかけられるようになった」
「相談? 小山内さんが……雄二に?」
「詳しくは話してくれなかったけど……由紀ちゃんが短大1年のときに初めて付き合ったヤツが、とんでもないサドで……SEXのときに本性を現して……。初めてのSEXが恐怖と苦痛だけで終わったから、もう誰とも付き合えないって言ってた。好きな人ができても、SEXできないと分かると……みんな離れていくんだってさ」
「そんな……」
「だからオレはSEXナシの彼と彼女になろうよ、って提案した。最初は由紀ちゃんも戸惑ってたけど……『リハビリのつもりでいいじゃん』て言ったら、納得してくれたんだ」
―― それは『彼』と『彼女』とは言わないぞ。『異性の友達』だろ?
「けどベッドに入ってきたぞ!?」
「オレは由紀ちゃんの抱き枕さ。情緒不安定になったり、眠れなくなったりしたときに、そうゆう行動をするみたいなんだ。だから彼女にだけ、合鍵を渡したんだ」
「お前が何もせずに、ただ寝るだけだなんて……嘘だろ?」
「由紀ちゃんは真面目で純真な子だぜ? 遊んでる子ならともかく、オレがそんな子に手を出せるワケないじゃんか! 彼女の泣き顔は見たくないんだよ!!」
「……小山内さんのことが好きなのか?」
「悪いか!? 柄にも無くプラトニックだよ! ……みどりには悪いと思うけどな……」
―― お前……
弟の苦しそうな顔を見てしまった僕は、もう何も言えなかった。
* * * ☆ * * * ☆ * * * ☆ * * *
雄二さんの優しさに触れているうちに、この人なら大丈夫かもしれないって……そう思うようになっていた。
このまま、ずっと付き合っていけるような気がしていた。
―― 他にも彼女が居るって、最初から分かっていたのに……馬鹿よね……
子どもの頃は『大きくなったら、お嫁さんになりたい』っていう夢があった。
好きな人の子どもが欲しい。
雄二さんの奥さんが羨ましい。
私の夢……もうダメかも……
* * * ☆ * * * ☆ * * * ☆ * * *
弟の話を聞いた翌日から、小山内さんの姿を目で追ってしまう。
つい顔色を伺って、体調の心配をしてしまう。
―― どうしてこんなに気になるんだろう……
ここ最近、小山内さんの顔色が悪いように見える。
『抱き枕』
弟の言葉が頭を過ぎる。
ちゃんと眠れてるのか? いっしょに眠ってくれる相手は居るのか?……なんてことを考えていたら、腹が立ってきた。
そんな自分を可笑しく思う。
―― 僕は小山内さんの彼氏でもなんでもないのに、勝手なものだな……
書類から目を離し、ふと顔を上げると……机の向こう側に、小山内さんが意識を失って倒れていくのが見えた。
僕は咄嗟に駆け寄って支えた。
頭で考えるよりも早く、体が勝手に動いていた。
* * * ☆ * * * ☆ * * * ☆ * * *
目が覚めたら、白い天井が見えた。
此処は……医務室みたい。
―― そういえば私、倒れたんだ……
雄二さんみたいな優しい人なんて、滅多に出会えるもんじゃない。
見知らぬ人に声をかけるなんて、私には無理だし
おまけに「一緒に眠ってください」だなんて……変に誤解されたら困るし
そんなこんなで、あれからなかなか眠れなかった。
食べ物も、ほとんど口にしていなかった。
顔色の悪さは化粧で誤魔化せるけど、体調の悪さは隠しようもない。
―― もう限界だわ……
涙が目尻から耳へ流れ……枕へと吸い込まれていった。
「泣くな」
―― 誰?
ゆっくりと声のした方へ向いた。
「係長…」
―― どうして?
「睡眠不足と栄養失調だそうだ。あれから……眠れてなかったのか?」
「え?」
「雄二から全部聞いたよ。僕も誤解していたところがあるから、君に謝らないといけない。……すまなかったね」
「そんなの……係長は何も悪くありません。私が……」
「君は何も悪くない。それよりも、お願いがあるんだ。……僕じゃ駄目か? 君の彼氏に、僕はなりたいと思っている」
―― 何、を……
「君さえよければ、彼氏にしてほしい」
「係長、冗談はやめてください! お付き合いしている人が居るんじゃないですか?
それに……同情は止めてください。そんなの、悲しいです……」
「彼女にはフラれたよ。『あなたの心には誰が居るの!?』って言われて気がついた。僕の心には君が居たんだ。だから同情なんかじゃないよ」
「でも私は……」
「言っただろ? 全部、雄二から聞いた。君の心の傷も、何もかもね。それを承知の上で、お願いしているんだ。僕と付き合ってほしい。そして2人で……ゆっくりと君の心の傷を癒していこう」
こんな暖かい優しさがあるなんて思わなかった。
嬉しさのあまり、涙が後から後から溢れてきて……止める術もなくて……
「泣いてちゃわからないよ。返事は?」
「……はい……」
「うん。じゃあ……まずは互いの名前を呼び合うところから、始めようか?」
「係長……じゃなくて、坂井(さかい)さん?」
「下の名前、知らなかった?」
「え……と……?」
「浩一郎(こういちろう)。さぁ由紀、呼んで?」
「……浩一郎さん……」
「よくできました」
そう言って、係長……浩一郎さんは、私を優しく抱きしめた。
― End.―