急転/決別 (過去)(2.尚吾)
その日、綾女からかかってきた電話に尚吾は驚いた。 いつも落ち着いている彼女が、感情のまま興奮して話してくるなど…そのようなことは、今までになかったからだ。
『父が尚吾さんの存在を知って、悪く言って…。いくら「違う」って説明しても聞いてくれなくて、登下校も兄の車になって、私……尚吾さんに会えない……』
酷いことを言われたんだね 僕は女子高生を騙す悪人になっているの? 僕たちはまだそんな関係じゃないのに 負けないで 大丈夫だから……
「綾女、落ち着いて。…学校には、ちゃんと通えているんだね?」 『はい…』 「いいかい? どんなに暗い夜でも朝は必ず来るし、どんなに寒い冬でも必ず春は来るんだ。信じて頑張ろう。僕も打開策を考えるから…ね」 『はい』 「会えないのなら、せめて声だけでも聞きたい。…電話、いつでも待ってるよ」 『尚吾さん……』 「じゃあ…」
電話の向こうで綾女が泣いているのは気付いていた。 だが己に「会いたい」と言って泣く彼女に、「泣くな」とは言えなかった。 (独りで泣かせたくないのに…僕は傍に居てやれない……)
どうにもできない己が不甲斐無く、もどかしかった。
綾女からの泣き声混じりの電話を受け始めてから1週間が過ぎた頃に、尚吾は部長から呼び出しを受けた。
* * * ☆ * * * ☆ * * * ☆ * * *
「年明けからアメリカ本社に行ってくれ」 「アメリカ本社…ですか?」 「急で悪いんだが……君にも、その方がいいだろうと思ってな」 「その方がいい、って…一体どういう意味なんですか!?」 「社長宛に、一通の手紙が来た。『高校生の娘が誑(たぶら)かされた』と訴えて君の名を挙げている。私も目を通したのだが……あれは酷かったな」 「デタラメです! 僕と綾女は、まだキスさえしていないのに…」 「やはり、あの内容は嘘なのか……」 「彼女の父親が邪推して、書いたのだと思います」 「しかし…たとえ虚偽だとしても、そういう内容の手紙を送られてきた事実と、その手紙の存在自体が問題なんだ。……爆弾を抱えたと言っても過言ではない」 「虚が、まかり通ると……そう仰るんですか?」
そんな理不尽なことって、あるのか!?
「手紙の内容が他所に漏れでもしたら、我が社の致命傷になってしまう。いくらそれが虚偽だと主張しても、誰も信用しない。ライバル会社は、こぞって我が社の顧客を奪いにかかる。……世の中とは、そういうものなんだよ。悔しいがね…」 「!! そんな…」 「社長は大層ご立腹で『クビにしろ』と仰った。だが私は、こんなことで君の能力を埋もれさせたくなかったから『ならば本社へ異動させてください』と直談判した」 「部長……」 「君の気持ちは充分に理解している。だが『辞める』などと簡単に言わんでくれ」 「…………はい。アメリカ本社への異動、承知いたしました」
脳裏に綾女の泣き顔が浮かんだ。 本当はアメリカに行きたくなかった。 けれども尚吾は…1ヵ月前に入院した父の為にも、己を庇ってくれた部長の為にも…そう返答するしかなかった。
* * * ☆ * * * ☆ * * * ☆ * * *
あの日―― 部長から本社異動の話を聞かされた日からずっと、綾女と連絡が取れていない。
尚吾は限られた日数の中―― 日中は顧客への挨拶回りをし、帰社してからは深夜まで引継ぎの資料を作成し、帰宅してからは渡航の準備をした。 家財道具の処分、マンションの解約、……するべきことは山のようにあった。
綾女の家に訪問できたのは、渡米する前日のことだった。 何度も呼び鈴を押しても返事は無く…… 尚吾は郵便受けに、己の気持ちを込めた手紙を入れた。渡米するが待っていてほしい、という手紙を。 そしてこの手紙が、綾女の手に渡ることを心から願った。
* * * ☆ * * * ☆ * * * ☆ * * *
渡米してから3ヶ月が過ぎた。 綾女には何度か手紙を送っていたが…未だに返事は来ない。 だが尚吾は希望を捨てなかった。
いつものように日本からのメールボックスを開いた尚吾は、『(株)タカムラの御曹司が結婚!』という件名を見つけた。 タカムラの社長は、渡米前まで担当していた顧客だ。 尚吾は懐かしく思いながらメールを開いたが、読み進めていくうちに…その顔から表情が無くなっていった。 「…御曹司、高邑惣一(たかむら そういち)氏のお相手は…旧華族のお嬢様、大道寺綾女!? 嘘だ、そんな馬鹿な……」
いずれは妻にと望んだ名が、そこにあった。
そういえば、「父は『旧華族であることを誇りに思え』って口癖のように言うけど、私は…そう思えないの。あまりにも昔のことだから、ピンと来ないのかしらね」と彼女は苦笑していたが… 何故、僕以外の男と結婚をしたんだ!? 君から何も連絡が無かったのは、こういう理由だからなのか? 綾女、どうして………
尚吾は絶望し、そして…綾女への気持ちを封じ込めた。 |
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