記憶を辿れば……
三週間くらい前からだったと思う。確かに少し、違和感は感じていたの。
でもハッキリとじゃなく「あれ?」っていう程度のモノだったから、楽観的に考えていたんだけど……大変なことになっちゃった。
―― はぁ…
元はといえば、こんなになるまで放置していた私が悪い。それは分かってるんだけど……なかなか踏ん切りがつかなかったんだもん。
食後のケアさえちゃんとしてれば大丈夫かな? って思ってたんだもん。
なのに努力の甲斐もなく、日に日に酷くなってきてる。……ってことは……もういい加減に覚悟を決めなきゃダメ、なんだよね……。
―― ヤだなぁ…
私は洗面所の鏡を見ながら、大きな溜息をついた。
何が嫌いかと言ったらもう、声を大にして「歯医者!」と即答する私。
その私が、こともあろうに『虫歯』になった。
いや『なった』というよりも、詰め物が外れたのを放置しちゃってたのが悪化した、ってゆうか………
はい。悪いのは私です。それは重々承知しています。
でもね、何度も何度も通ったって、あの場所には慣れないんだもん。
行かなくて済むんだったら、絶対に行きたくなんかない。
だけど……
今度ばかりは、行かなきゃいけない。本当に本当にイヤなんだけど……ね……。
* * * ☆ * * * ☆ * * * ☆ * * *
私は今日、友達に教えてもらった『武内歯科医院』に来た。
患部を見た途端に「うわ……」と絶句した医師に、ドキッとして不安になる。
―― ちょっとセンセー、そんなに酷いんですか!?
「外れてから、どれくらい放置してた?」
「えっと……一ヶ月半、かな……?」 (いや、もっと前だったかもしれないなぁ……)
メタルフレームの眼鏡に大きなマスクで、顔がほとんど隠れているけど……若そうな医師。
でも私が答えた途端、眼鏡の奥にある彼の目が険しくなったように見えた。
―― え、もしかして怒らせちゃった?
「こんなになるまで放置するな!!」
「はいぃっ!」 (ごめんなさい! お願いだから怒らないでくださいぃ)
怖くて泣きそうになりながらも、なんとか堪えた。
「麻酔無しで削る。治療の途中で痛くなったら左手を上げろ。手を上げればすぐに止めるから、絶対に動くんじゃないぞ。分かったか?」
口を開けたままの私は、左手で『OK』の合図を送って見せる。
「よし」
――はい?
心の中で「センセ、『よし』って何なんですか? 私は子供じゃないんです、もう二十歳なんですから!」って不満に思いながらも口を開けて治療を受けていた。
けど……少しずつ、少しずつ、痛くなってきて……
限界ギリギリまで我慢した私は「もうダメ!!」と思って、サッと左手を上げた。
なのに!
「あともう少しで終わる。我慢しろ」
――え?
すました声に一瞬、思考が停止した。
暫く経って復活したときには、「センセの嘘つきーー!!」の言葉が浮かぶと同時に涙ぐんでいた。
それでもなんとか口を開けている私を見たセンセは、呆れたみたいだったけど
「……もう終わったから、泣くな」
と言ってくれた。おまけに「よく頑張ったな」なんて言いながら私の頭を撫でてくれた。
―― 私、もう二十歳なんですけど……
だけどセンセの手は大きくて温かくて、とっても気持ちが良くって…。褒められた私は、とても嬉しくなった。
―― こんなので嬉しくなるなんて……まだまだ『子供』ってことなのかなぁ……
* * * ☆ * * * ☆ * * * ☆ * * *
センセから「悪いところは全部治療しよう」と言われた私は、あれから『武内歯科医院』に通っている。
初日に処置した虫歯が、いちばん酷かったようで。今はもう泣くこともない。
治療の合間に少しずつ、センセと話せるようにもなってきた。
そして治療の最終日……
「歯は大事にしろよ。虫歯だらけじゃ彼氏もできないぞ」
「……彼氏、いますけど……」
「ふーん。可愛い顔して、ヤるこたヤッてんだな」
―― はい!?
こんな言葉が返ってくるとは思ってもいなくて、頭の中が真っ白になってしまった。
『可愛い』って言われたことは嬉しいけど、
彼氏と色々ヤッちゃってるのも事実なんだけど、
なんで私がこんなセクハラみたいなこと言われなきゃいけないの!?
こんな場合、なんて返事をしたらいい?
どんなリアクションをとればいいの?
何も考えがまとまらない。
私は俯いたままセンセの顔も見ずに
「失礼します」
と言って、受付へ行った。
心の中で「もう絶対ココには来ないもん!」と思いながら……
* * * ☆ * * * ☆ * * * ☆ * * *
歯医者に通っている間はあまり会えなかった彼と今日、久しぶりに会える。
待ち合わせの喫茶店で、約束の10分前からウキウキした気分で待っていたのに…。現れた彼は、綺麗な女性と一緒だった。
しかも開口一番、「コイツが妊娠したんだ」って……信じられないコトを言われた。
「……え?」
「だからオレ達―――」
私の頭は、彼の言葉を理解しない。
私の耳は、彼の言葉を素通りさせていく。
高校の同窓会で久しぶりに会ったときに、『お前のこと、ずっと好きだったんだ』と言ってくれた。
それから私達は始まって……何もかも全部、彼がハジメテだった。
付き合った一年間は楽しく過ぎていった。それなのに……
どうして!?
私が……私が悪いの?
怖くて、出来なかったから?
だから他の女性と……?
そっか……私、もう要らないんだ……
漸く現実を受け入れることができたとき、涙が零れた。