「うわ……」
滅多なことでは動じることのない俺が、その患部を見た途端に絶句した。
俺は歯科医師。父が始めた歯科医院で、兄と共に患者を診ている。
『経験豊富』とまではいかないが、今まで治療してきた虫歯の数は多いと思う。
だが、ここまで酷くなっているモノは見たことがなかった。
ふと横に置いてあるカルテの名前を再確認する。
『石崎美緒(いしざき みお)、学生』
―― 先月、二十歳になったのか……
それにしても普通、ここまで放っておかないだろ!?
「外れてから、どれくらい放置してた?」
「えっと……一ヶ月半、かな……?」
上目遣いで天井を見ながら記憶を辿っているんだろう。答え方が曖昧だ。
だが俺は『虫歯』を安易に考えている様子に腹が立った。
「こんなになるまで放置するな!!」
「はいぃっ!」
ビクついて泣きそうになっている姿を見ても、可哀相だなんて思わなかった。明らかに『放置して悪化させた』という状態の患者には、俺は容赦が無い。
彼女には『歯』のことをもっと意識してもらいたい、と思いながら会話を続けた。
「麻酔無しで削る。治療の途中で痛くなったら左手を上げろ。
手を上げればすぐに止めるから、絶対に動くんじゃないぞ。分かったか?」
口を開けたままの石崎さんは、左手で『OK』の合図を送って見せる。
「よし」
頷いてから治療を始める。
奥へ奥へと削っていくうちに、だんだん痛くなってきたのか……彼女の表情が変化してきた。大抵の人ならもう手を上げている頃だ。
相当痛いだろうに……どうやら随分と我慢強い人らしい。
だからなかなか歯の治療をする気になれなかったのだろうか、と思った。
いったいどこまで我慢できるんだろう……試してみたい気持ちが湧いてきて、慌てて打ち消す。
―― ナニ考えてんだ俺は……
あともう少し、というときに彼女がサッと左手を上げた。が、俺は治療の手を止めずに「あともう少しで終わる。我慢しろ」と言い放った。
途端に見開いた目をすぐさま非難の眼差しに変え、俺を見ながら涙ぐむ彼女。
それでもなんとか口を開けている姿に、呆れるやら感心するやら……
―― ここまで素直に俺の言うことを聞くなんてな……
治療を終えた俺は「もう終わったから、泣くな」と声をかけ、「よく頑張ったな」と言いながら頭を撫でてやった。
何故こんな行動を起こしたのかなんて、自分でもわからない。
思わず手が出ていた、というか……気付いたら撫でていた、という感じだった。
だが撫でられながら気持ち良さそうに目を閉じている彼女を見ているうちに、心の中が温かくなってきて。理由なんてモノは、どうでもよくなっていて……。
俺は久しぶりに穏やかな気持ちになれた。
なのに治療の最終日。俺の放った一言が、彼女の顔を曇らせた。
いくら悔やんでも言葉は戻せない。
俯いたまま逃げるように去った石崎さんの後姿が、俺を責めているようだった。
* * * ☆ * * * ☆ * * * ☆ * * *
こんな偶然ってあるんだろうか……
その週の日曜日。ドライブの帰りに立ち寄った喫茶店に、石崎さんが入ってきた。
いかにも「彼と待ち合わせしてるんです」という雰囲気を纏っている彼女は、斜め後ろの席に居る俺には全く気付いていない。
仕方ないかと諦めながらも彼女の様子をずっと見つめていたが……女と一緒に入ってきた彼氏が話を始めたとき、その理不尽な内容に怒りが込み上げてきた。
石崎さんの肩が震えだしたときにはもう俺は、彼女の背後に立っていて「美緒……」と今まで出したこともないくらいの優しい声で囁きながら、椅子に腰掛けたままの彼女を後ろから抱きしめていた。
そうして初めて気が付いた。
俺は、美緒のことが好きになっていたんだ、と……
それから俺は美緒を立たせ、クルリと向きを変えて腕の中に閉じ込めた。
「……セン……セ……?」
「……ああ、俺だ」
抱きしめた美緒の背丈は、俺の肩辺り。
話をされると胸に息がかかって、妙にくすぐったかったが……そのままの姿勢で元彼と対峙し、笑みを浮かべたまま相手を睨みつけて言ってやった。
「美緒は俺が幸せにする。オマエより何倍も、な」
それから俺は美緒の肩を抱き寄せながら、喫茶店を後にした。
* * * ☆ * * * ☆ * * * ☆ * * *
「……ねぇ、ホントに……ホントに武内センセなの?」
駐車場へ向かう道。まだ状況を把握しきれていない様子の美緒が、問いかけてくる。
「そうだが?」
言いながら空いている方の手で、顔の下半分を隠して見せてやった。
「!! あ、でも眼鏡は……?」
「あれは伊達だ。視力は至って良好。他に聞きたいことは?」
「……どうして私を……あ、……」
店内でのことを思い出したのか、美緒の目に涙が浮かんできた。
俺は美緒の泣き顔を他人に見せたくなくて、その身体を包み込むようにして抱きしめた。人目なんか、気にしていられない。
「あんなヤツ、想ってやる価値なんて無い。泣くな」
「でも……」
「忘れろ」
「……うん、……そうする……」
「で、俺と付き合え」
「やだ」
「即答するなよ……」
「だってセンセ、歯医者だもん。それに、その容姿……。モテルでしょ?」
「それがどうした?」
「私、歯医者はキライなの。その上、モテル彼氏だなんて尚更――」
「俺は転職する気はないぞ。どうして歯医者が嫌いなんだ?」
「トラウマなのかなぁ……。初めて行った時、すっごく怖くて……それで……」
「この場所じゃあ言い辛いだろ。……俺の車の中で、詳しく話してくれないか?」
助手席に座るように促した俺は、車を走らせながら原因を聞き出して……マンションへ着く頃には、何とか『歯科医師の俺』を納得させることができた。
* * * ☆ * * * ☆ * * * ☆ * * *
駐車場に車を止めてからも、俺たちは車内で話を続けていた。
「新しい恋をして、嫌な過去は綺麗サッパリ忘れてしまえよ。な?
確かに俺はモテルが…好きなのは美緒、オマエだけだ。他の女など要らない」
「私が好き……なの?」
「あのとき『彼氏がいる』と聞いて腹が立ったのも、『可愛い顔して……』と言ってしまったのも、全てが嫉妬心からさせたことだったんだ」
「センセが嫉妬だなんて……」
「女を口説くのも初めてだが、嫉妬したのも初めてだ。今までこんな感情、持ったことも無かったんだが……オマエへの想いに気付いてみれば、『なんだ、そうだったのか』と……全てに納得がいったよ」
「センセ………」
「美緒が好きだ。俺と付き合ってくれ」
「えっと……でも私、センセのこと何も知らないし……」
「では自己紹介しよう。俺は武内康裕(たけうち やすひろ)、歯科医師、28歳。
彼女ナシ暦5年。セフレは居たが、美緒を治療するようになってから別れた。
原因は……オマエ、だ」
「私!?」
「裸の女を前にしても、勃たなくなったんだ。あのときは原因なんて何も思い浮かばなくて、随分と悩んだんだが……ほら、今はオマエに反応しているぞ?」
言いながら美緒の手首を掴んで股間に持って行き、俺自身をアピールする。
驚いて手を離そうとする美緒。
させまいとして、さらに力を入れる俺。
「どうやらオマエ限定のようだ。責任を取ってくれ」
「責任って、そんな……私……困る……」
真っ赤になって俯く美緒がとても可愛くて、少し苛めたくなってくる。
「どうしてだ? アイツと、ヤることヤッてたんだろ?」
「だって……アレは、その……」
「何だ? ハッキリ言ってみろ」
「……指は、入れられたことあるけど、アレは……怖くて……まだ……」
「そうなのか!?」
まさかの言葉に驚いた。
だからヤツは他の女に走ったのだろうか。
だが俺にとっては、この上なく嬉しいことだ。
「全部、俺が教えてやる。何も怖く無いから安心しろ」
「……ホントに怖くない?」
「ああ」
顔を上げて上目遣いに見てくる美緒に、心が騒ぐ。
「……センセとお付き合い、します……」
「よし!」
「優しく…してね?」
「俺に任せておけ」
「はい」
美緒はそう言って、ふわりと微笑んだ。
初めて見たその笑みに、俺は柄にも無く緊張してしまった。
それから俺は、部屋に美緒を連れて帰り……もちろん優しく抱いた。
痛いことには我慢強く、怖いことには泣いて嫌がる、素直で可愛い彼女を…。
― End.―