好意と悪意(2)(25.香織)
会議室に入るなり鍵をかけた課長は、いきなり私を抱きしめた。 てっきり「何故、誤魔化した!?」と開口一番に詰問されると思っていた私は、もうビックリして…目を見開いて、突っ立っているだけだった。けど… 「俺には話せないか? 俺では頼りにならないか?」 苦しげな課長の言葉にハッとして、ようやく彼の気持ちが理解できた。
「違うの! 仕事中だったし、心配かけたくなかったから、ああ言っただけで…」 右腕を動かして、彼の背中へ回す。 「ちゃんと帰りに話そうと思ってたの。でも……これからは、何かあったらすぐに言います。…ごめんなさい」 「そうしてくれ。心配で心配で仕方がない。原因が分かれば対処もできるが」 「そんなに心配しなくても…」 と言うと、彼は抱擁を解いて…私の目線に合わせて屈み込んだ。 「とにかく! 隠し事するな」 「…はい」 私がそう答えると、納得したように彼が頷いた。 それから彼は、私を抱き上げてパイプ椅子に座り、私を膝の上に乗せて…と、いつもの体勢に落ち着く。
「何があった?」 「それが……」 私は課長に、女子トイレでの一件を話した。
見る見るうちに彼の顔が、怒りの形相に変化していく。 「誰だ、そんな噂を流した奴は!! …話し声に、聞き覚えは無かったか!?」 「キーパンチ室と総務なら、声を聞いただけで顔が浮かびます。でもあの声は…聞いたことあるんですけど…誰なのか、までは分かりません」 「そうか…」 「伝言ゲームみたく、事実がどんどん変化して伝わっているのかもしれません。でも悪意を持ってワザと口にした人が居たら、って思うと……とても怖いんです」 「香織…」 「すごいショックだった。事実と全く違うのに、それが本当のことみたいに、どんどん伝わっていくと思うと…。当事者じゃない人たちは好奇心が旺盛で、騒ぐだけ騒いだらそれで終わりだけど、じゃあ私は? 私は……どうしたらいいの!?」 「お前は何も心配するな。普段どおりでいいから」 「でも!」 「俺に任せろ」 彼が私を抱きしめて、頭の頂上に口づけた。 「え…?」 「いいから任せろ。な?」 そのまま、静かに頭を撫でられて……ようやく気持ちが落ち着いてきた。 「はい…」
「もう通常業務に戻れるか?」 ふいに言われて、まだ仕事中だったのに気付く。 「あ! 区別つけなきゃ…」 慌てて彼の顔を見上げると 「緊急事態だから特別だ」 すました顔で答えてくる。 「これって緊急事態なんですか?」 「お前はショックを受け、俺はその原因が気になっていた。あのままだと、お互い仕事に支障をきたす。そうなる前に問題は早急に解決すべき、だろ?」 「…そうですね。あんな状態じゃあ仕事できなかったと思います」 …さすが課長、そこまで考えてるんだ…
「…というのは上司としての建前。俺にとって香織は最優先事項になる。お前に何かが起これば、俺は即座に行動する。それが俺の本音だ」 私の目をじっと見つめながら「こんな男は嫌か?」と聞いてくる彼に、首を横に振って答えた。 「そこまで想ってもらえて…嬉しいです」 「よし、もう大丈夫だな。戻るぞ」 「はい♪」
同じ廊下を歩いているのに、来るときとは全く違ってて…とても気持ちが落ち着いてて、足取りも軽くて…その変わり様に、自分でも驚くくらいだった。 …とっても頼りになって、私に安心を与えてくれる人… 彼の広い背中を見ながら、そう思った。
* * * ☆ * * * ☆ * * * ☆ * * *
右手だけで、なんとか仕事をこなして…終業時間になった。
ベルが鳴ったと同時に、室長席まで来た課長は 「抜糸が済んでも、しばらくは定時で帰ったほうがいいだろう」 と言いながら、JOBノートの端に『俺も帰る。エレベーター前で待つ』と書いた。 私は、そんな彼の仕草にドキドキしながら 「はい。そうさせてもらいます」 と答え、その下に続けて『着替えたら行きます』と書いて…彼の顔を見上げた。 微笑んでくれる彼。 そんな言動の一つ一つが、とても愛しく思えてくる。
…こうゆうのって、なんかイイな…
私は心に温かいものを感じながら今日のJOBをまとめ、明日の納品予定を確認し、全データを保存してからメインの電源を切って…更衣室へと向かった。
* * * ☆ * * * ☆ * * * ☆ * * *
更衣室には―― 見知った顔は無く、開発課の4人が居るだけだった。 思わず「あ…」って声が出たのを「お疲れ様でした」と言って、誤魔化す。 …この人たち、苦手だ… そう。 プログラム組めて、バリバリ仕事して…ホントに羨ましいくらいの人たち。 開発課の女性の中でも、抜きんでて仕事がデキル人たち。 でもそのことを鼻にかけてて、私たち ―― キーパンチ室や総務課 ―― と一線を引いてて、常に4人だけで行動する人たち。 更衣室を使う時間帯が違うのかな? と思うくらい…私が勤め始めてから3ヶ月が過ぎたのに、両手で数えられるくらいしかココで会ったことがない人たち。 そして…キツイことも平気で言うから、あんまり顔を会わせたくない人たち…。
…なんで私だけ? 他の人はもう帰っちゃったのかなぁ… そう思いながら、自分のロッカーに手を伸ばした。
「ねぇ、ぶつかっただけ、なんでしょ? そんな大げさにしなくてもいいじゃないの」 「え?」 まさか話しかけられるとは思ってなかったから、ビックリして手が止まった。 …でも、この声… 「なんとか言ったらどうなの!?」 「あんたなんかレイプされてればよかったのよ! せっかく女子トイレで話題を提供したのに、誰も食いついてこないんだから…」 !!!! 「…あなたたちが話してたの!?」
「あら、本人が聞いてたの!? それじゃあ噂にならないハズだわね〜」 「な〜んだ、がっかり〜」 「でも…あんたホントにムカつくのよね」 「さも大怪我したみたいに、大袈裟に包帯なんか巻いちゃって」 「そこまでして、人の目を引きたいの?」 「清水課長に媚売ってるんじゃないわよ!」
…この人たち、いったい何を言ってるんだろ…
目の前で実際に言われているのに、全く現実味が無い。別の世界の出来事を見ているように思えてくる。 この人たちの思考が理解できない。
「ねぇ、…その包帯、取っちゃおうか?」 そう言って1人がロッカーから、大きな裁ちバサミを出してきた。
「…え!?」 「ぶつかっただけで、そんな大怪我になるワケないでしょ?」 1人に右腕をつかまれる。
「…ウソじゃないもん…」 「人に同情されようって、思ったってダメなんだからね」 1人に左腕をつかまれる。
「…違う…」 「あんたが、どんな怪我をしたのか…ちゃんと私たちが確認してあげるわ」 最後の1人に、後ろから羽交い絞めにされる。
「…ぶつかって飛ばされて、壁に当たってから廊下に倒れたの! だから…」 「確認してあげる、って言ってるでしょ!」
ハサミが!!
「…イヤ……」 「動かないで! 下手に動いたら怪我するわよ」 「…やめて!」
「イヤ ――――――――― !!!」 |
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